15節から20節の御子の詩の後半、キーワードは教会、十字架の血、平和、和解です。前半の神のかたちとしての御子、創造から救いへと至る「間」が先の21節にある、「神から離れ、敵意を抱き…」という罪の結末の世界です。
罪に堕ちた世界に神は二つの問いを発せられました。アダムに対する「あなたはどこにいるのか」という問いとカインに対する「あなたの弟アベルはどこにいるのか」という問いです。アダムは神を恐れて身を隠し、カインは弟を殺しながらそれを隠します。それは、13節にあった「暗闇の力」に支配されて、神と人との間、人と人との間に断絶という深い闇を負ったのです。そして、その断絶は暴力となって現れます。最も身近な夫婦から、世界大に至るまで。そこに「剣を鋤に、槍を鎌に」(イザヤ2:4)という日が御子によって来たのです。
御子は教会のかしら。この教会とは、御子を信じる者すべてが迎えられる公同の教会であり神の国です。それは地域教会という場によって具体的に表されます。人の罪はかしらになりたがります。争いの原因は、万物を創造し、十字架の血によって贖って下さった御子をかしらとしないところです。そして、神の問いかけから隠れ続ける世界です。
一方、かしらのしるしは十字架の血による平和です。そして、それが告白として繰り返し確認される場は聖餐です。ともに聖餐にあずかるとき、かしらである御子の前に頭を垂れて、自らの暗闇を明け渡す。そして、口先だけではない告白がされるのが聖餐です。厳粛な御子の招きです。そこに平和の土台があるのです。そこに与えられる恵みは和解です。和解とは、関係の破れの回復です。神と人、人と人の間のすべての隔てと闇が取り去れ、御子の創造の本来の姿、「非常によかった」という創造のはじめの天と地、三位一体の、愛と一致の神の栄光の姿に回復するのです。私たちもその神の恵みのご計画の一部に加えられているのです。