今、なすすべがない現実に「祈り」ということばが聞かれます。初代教会は祈りに専心していました。私たちは信仰をもって祈るとき、誰に、いつ、何を、どのように祈るのかをもう一度確認したいのです。
エペソ3:14-19のパウロの祈りは、「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前」への祈りです。祈りは陳情や要望ではありません。役所仕事のように画一的にあるいは基準をもってなされるものではなく、家族に迎えられた私たちが父に祈るのです。悲しみや願いであったり、まとまりのつかないことであったり、心の中の思いをともにしてくださるお方に祈るのです。また聞き手であるお方は、天地のすべてに力と権威をお持ちのお方です。ことを動かすことがおできになるのです。
そのお方に祈るのは「いつでも、どんなときでも」です。ルカ18章で主イエスはそのことを一つのたとえ話で教えられました。朝夕に、食事毎に、ことを始めるとき、終わるとき、いつでもどこでも祈りを通して神と共に生きるのです。
私たちは、何を祈るべきでしょうか。私たちは自分が変わることよりも周りが変わることを求めます。また自分の願いごとを祈ります。しかし、パウロが求めた祈りは「内なる人が強くされること」であり、「キリストが心のうちに住むこと」です。もちろん、私たちには様々な必要があります。しかし、第一の祈りは神の国とその義です。
ピリピ4章ではそのように祈る者は、「主にあって喜ぶ」ことができると語られています。このお方がともにいてくださる平安が私たちの力だからです。一切の権威をお持ちの主が私たちとともにおられる、その力を祈りを通していただこうではありませんか。
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