「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」ということばはよく知られたことばで、何かを全く新しくするときに使われることばです。最初の弟子たち、彼らはイエスの招きに自分の持てるものを捨てて従いました。しかし、人は持てるものが多ければ多いほど、捨てることが難しいのです。伝統やしきたり、人の評判や体面、立場やメンツ、お金やプライド…。
さて、食卓を囲むイエスの姿は人々にとっては不思議でした。というのは、今まで神に熱心な人たち、ヨハネの弟子たちもパリサイ人たちもみな断食をしました。断食は世の煩いの一つである食を断って、神の御前に集中するためのものです。それをしない。それは花婿と喜びを共にするのと同じ。それが今だと言われるのです。神ご自身がともにいてくださるとき、わざわざ、断食をする必要はないのです。
ところが、花婿が取り去られる日が来るとイエス様は言われました。それは十字架であり、復活、昇天の時です。復活のイエスは天に帰られる前に弟子たちに聖霊を与える約束を与えられました。そして、御霊が下り、教会が始まりました。ペンテコステです。その後の教会、信仰者たちの歩みはどう導かれたでしょうか。新しい皮袋となって歩み新たにされたはずです。ところが残念なことにイエスから目を離す者たちが出てくるのです。古い皮袋に戻ってしまうような偽りが入り込んでくるのです。
ペンテコステの後、教会は「彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」(使徒2:42)とあるように、4つのことを繰り返したのです。それらをして絶えず、イエス様の命あふれる恵みを受け取るにふさわしい柔らかな器と私たちもさせていただきましょう。