マケドニヤ人の叫びは神の導きだと確信したパウロは、すぐさまマケドニヤに渡り、ピリピで伝道を始めます。今まではユダヤ人の会堂が拠点となりましたが、異邦人中心のこの町では祈り場がある川岸から始め、ルデヤとその家族が救われます。続いて救われたのは占いの霊につかれた女奴隷でした。
彼女は、占いの霊の言うなり、あるいは主人たちの言うなり。自分が自分でない縛られた人生を送っていました。考えてみると私たちも「私」を生きているより、周りに動かされ、縛られ生きてはいないでしょうか。「原発ムラ」ということばから始まって、日本の私たちの生き方はどこかおかしいと言われます。どこかおかしいとわかっていても、荒波立てず、あるいは自己保身のため、組織や家を守るため、自分を殺して生きるということをしてはいないでしょうか。
救いはいのちの造り主にして絶対者の前に生きる「私」に立ち返ることです。主にあって「私」として生きることです。女奴隷はただ単に儲けの道具にされていただけでした。それを失った主人たちはパウロたちを訴え出ます。新しい救われた生き方は周囲に波紋を呼び起こすのです。
しかし、主の前に新しいいのちに生きること、主が与えてくださった永遠のいのちを喜び生きることこそ、私たちに与えられた救いです。ローマ人への手紙12章では、「この世と調子を合わせてはいけません」と教えられています。そう、いつも、主のみを目の前において、その御前に「私」は何を委ねられているのだろうか。何をなすべきだろうかと問いかけるとき、主はあなたに何者にも動かされることのない勇気を与えて、ことをなさせてくださるのです。さあ、主にあって喜び献げて歩もうではありませんか。