主の祈りの初めの3つの祈り、それは神中心の生き方を求め願う祈りでした。後半は私たちの必要を祈る祈りです。日ごとの糧、それは明日のための糧、必要な糧、日用の糧とも訳されます。それは、この語が聖書の中でここしか使われておらず、断定できないからです。一方、祈るべきことは明確です。それは主への信頼と感謝を言い表すことです。
ルカの12章には愚かな農家の主人のたとえ話がでてきます。彼は思いもかけない豊作に「これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と言います。いのちは神の賜物、そのことを忘れた大きな勘違いです。ルターはこの祈りの求めることは、神の恵みを思い起こして感謝するためだと言います。主の祈りの直前、主は「あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます」と教えておられるからです。
それが一番よくわかるレッスンは荒野のマナでしょう。その日その日の必要だけが備えられました。欲張って翌日分まで集めるとそれは腐りました。何もない荒野で主は養ってくださったのです。しかし、それはいつしか不平に変わります。感謝の反対はあたりまえ。彼らはマナに飽き、感謝を忘れ、肉が食べたいとつぶやくのです。神はおびただしいうずらを送ります。欲望に飢えた民は肉をかみ終わらないうちに疫病に打たれます。主への信頼と感謝を失う者たちの結末はあわれでした。
日ごとの糧、それは私たちの生きる必要を祈る祈りです。食べること、着ること、住まうことからはじまって、私たちの必要を願う祈りはここだけ。その一切を祈りのうちに主に信頼して願い、恵みに感謝する。それが神とともに生きる祈りなのです。