私たちが生きるところには「目に見える世界」と「目に見えない世界」があります。ペテロは「あなたはキリストです」という告白をしますが、見えていたのは「目に見える世界」です。彼を含めて弟子たちが描いていたキリスト像は、イスラエルをローマから救い、自由と繁栄を取り戻すことでした。ですから、受難と十字架などあり得ないことと考えたのです。
イエス様はこの時代を「姦淫と罪の時代」と言います。それはソドムの町に住むロトのようです。世にどっぷり浸かってしまい、そのものの考え方や価値観に動かされてしまうのです。
弟子たちも私たちもそうです。「目に見える」現実に私たちは揺さぶられます。病気や事故、人からの誤解や非難、不和や争い。解決つかないように見える困難。その解決にだけしか目がいかないことが実に多いのです。そして、それに圧倒され、大切なことが見えないのです。
イエスがここで見せられたお姿は、ご自身の栄光の輝きでした。弟子たちは、何を言っていいのかわからないほどのこと。その栄光を垣間見せられました。それを後にペテロは「この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。」(2ペテロ1:16)と語りました。これまで彼らが見てきたものは目に見えることだけでした。一方、彼らにとってこの出来事は目に見えない神の栄光に触れ、目に見えない世界、神の霊的世界を刻みつけられる経験となりました。
私たちが力とすることは同じような特別な霊的体験をすることでしょうか。私たちが求めるべきことは、聖書の証言の中にその励ましをいただいていくことです。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」と弟子たちに言われたように、みことばを通して語りかけられていることに目を留めるならば、「目に見えない世界」、神の栄光の臨在に触れて力をいただくことができるのです。目に見える現実に翻弄される私たちですが、神の栄光をみことばと信仰の目をもって見、力をいただきましょう。