「欠けているからこそ」出エジプト記4:10-17、近藤宣教師

 エジプトの地で増えたイスラエル人は過酷な労働を課され、その民の叫びを聞いた主は、モーセを使って民を乳と蜜の流れる地に連れ出そうとします。でもイスラエルの民やパロのもとに行くように言われたモーセは、「私はことばの人ではありません。私は口が重く、舌が重いのです。」と言います。それに対し主は、「だれが人に口をつけたのか。それは、このわたし、主ではないか」と言います。それでも抵抗するモーセに、主は怒り、兄アロンともに行くように言います。この箇所から、3つのことをお話しします。

 第一は、自分に欠けがあると主張して主に従わないことは、主を侮辱することです。刀鍛冶が刀を自信を持ってつくるように、主も私たちを造られました。そしてそれは、非常に良かったのです。(創世記1:31)

 第2に、欠けがあっても、主がともにおられます。実際に、モーセが語る言葉は、主が教えられたものであり、また、強情なパロの心を変えたのは、モーセの言葉ではなく、エジプトの地に主が与えられた様々な災難によってでした。

 第3は、欠けがあるのであれば、協力者が与えられます。モーセはいつもアロンと一緒でした。もしひとりであったならば、疲れ切ってしまい、イスラエルの民をエジプトから連れ出すという大事業はできなかったのではないでしょうか。

 私のバングラデシュでの歩みを振り返るとき、欠けのある私とともに歩んでくださった主を覚えます。また、私が働いている病院では、欠けのある私たちを用いて主がご自分のご計画を成し遂げられておられます。私たちは、欠けがありますが、同じく欠けのある隣の人とともに働くことによって、主に用いられるのです。