「武装宣言」とは、ものものしい題をつけました。キリスト者生活には戦わなければならないことがあるのです。3章ではそれは外から来るものでした。この4章では、目に見えない戦い、外部から来るものよりもむしろ、自分自身の内側からくる力との戦いに軸足を移します。
戦いは敵を知ることなくして戦えません。つかみどころのない相手、するりするりとかわされて、姿さえ見えなければどうにも戦いようがありません。エペソ6章でパウロは「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」と教えました。罪との戦い、したかしないかという外面的なものだけではなく、心の中の思いまでが問われるのです。
山上の説教でイエスは「天の父が完全なように、完全でありなさい」と命じました。それがここでペテロが言う「罪とのかかわりを断つ」ことです。私たちはは思うのです。「だって、人間なんだもん」、「しょうがない」、「しょせん人間は」、「生きているのだから」。どのようにしてそれに打ち勝つことができるでしょうか。
ペテロはキリストの試み、受難と同じ心構えをもって生きることを勧めます。イエス様の受難、そこには、大きな戦いがありました。それを前にイエス様はゲッセマネで祈りました。その心構えが鍵です。「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」(マタイ26:39)。武装とは、このイエス様のゲッセマネの祈りを同じようにいつも繰り返すことです。十字架のイエス様にふさわしい聖い歩みをしようではありませんか。