イエス様はユダヤからガリラヤへ向かう途上、「サマリヤを通って行かなければならなかった」とあります。それは、この女に会うためです。神にとって「たまたま』はありません。時を導き、出会いを導き、みわざをなしてくださるのです。
このスカルの井戸で、イエス様はこの女に水をお求めになります。それは話のきっかけです。そして、私が誰か知っていたら、あなたの方から水を求めたでしょうと言います。そして、「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(13-14)と言われます。それは飲む水のことではなく、人の渇きをいやす水のことです。
さらにイエス様は、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言います。彼女ははぐらかしますが、イエス様は彼女の問題をズバリ言い当てます。彼女は5回結婚しまし、5回破れました。圧倒的に男性優位な当時の結婚、「あなたはいらない」と言われたのです。その度、今度こそは必要とされる。受け入れられる。わかってもらえる。理解してもらえる。そう願ったことでしょう。しかし、その度に拒絶され、心を閉ざし、人目を避けて孤独に生きていたのです。
彼女は自分のすべてを知っているイエス様との出会いに心開かれました。閉じていた心は、傷も痛みも何もかも受けとめてくださるお方がいることに渇きいやされました。そればかりではありません。彼女は町に行きます。もう人目も気になりません。さらに泉となった水に力をいただいて前を向いて進み始めたのです。私たちにも同じ主が、すべてを知っていてくださいます。そして、ことをお導きになる。それが私たちの生ける水であり、力の基である泉なのです。