長く学んできた山上の説教、その教えは実質的にこの前の12節で終わり、ここからその教えを生きるための奨め、適用、迫りです。3つのたとえでそれを問いかけます。
もう一度、山上の説教全体を振り返ると、それは神の国を生きる者の生き方、あり方。簡単なものではありません。それでイエスはそれは狭き門、狭き道であると言われるのです。しかしその先はいのち。一方、広い門、広い道、その先は滅び。私たちに迫るのは、私たちが神の御前に立ち、さばきを受けること。世はどれだけこの世で手に入れたかがそのバロメーターですが、神の国はどれだけ与えたか。それが問われることです。
狭き門、それは捨てなければ入れません。茶室のにじり口、それはこの世のものを捨てなければ入れません。戦国時代、血と血を争い、謀反に刺客。一方で天下を取った者は贅の限りを尽くす。そういう世で、千利休は茶室に武士の魂と言われた刀も入れることは許しませんでした。イエスも自ら神のあり方を捨て、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われ」た(ピリピ2:6-8)ように私たちにも世の誇りと世の宝を捨てること求めておられるのです。
狭き門、それは一人選ばなければならないことです。連れだってとか、みんなで通るというわけにはいきません。神の御前に問われるのは、いつもあなたはどうですかという問いです。復活の主はペテロに3度私を愛するかと問うた後、「あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハネ21:22)と呼びかけられました。家族みんなが信じたら、夫婦足並み揃ったら、そう声が聞こえてきます。でも、最後に主が問われるのは、「あなたは私に従いなさい」です。狭い門。でも、その先にあるのはいのちの祝福なのです。