「生ける望み」、それは「新しく生まれること」。聖書の中ではペテロもともに聞いたであろうヨハネ3章のニコデモのストーリーを思い出します。イエスがニコデモに告げたのは「肉によって生まれた者は肉、御霊によって生まれた者は霊」。
肉とはそのことばの指すとおりカラダ。それは人の生まれついてもっている性質を指します。そこにはアダムから始まる原罪、罪を持った姿を意味します。そしてその罪の本質は神から離れていること。ペテロ自身もその限りを身をもって知っています。どんなことがあろうともイエスに従う、その思いむなしく、イエスを否んだ己の弱さ。一方でよみがえりのイエスは、そんな自分に「あなたは私を愛するか」と問いかけ、「わたしの羊を飼いなさい」と使命を委ねてくださった。そこに自分の肉ではない、神の霊によって新しいいのちに生きるということを新たにされたのです。
そしてそのいのちとは、「朽ちることも汚れることも、消えていくこともない」とペテロは言います。おおよそ、地上のものはみなむなしいものです。伝道者の書ではそれを「空の空…」と言います。過ぎ去っていくものに過ぎません。大きな災害の度に私たちはその現実を見ます。アッという間にみな失ってしまう。それが地上のものです。
しかし、私たちに与えられている約束は確かなもの。地上にあっては私たちは寄留者に過ぎませんが、天には確かな資産、永遠のいのちという素晴らしい資産が与えられているのです。地上のことに一喜一憂するのが私たちの目の前のこと。それは一時のことにすぎないこと、むしろ、それを越える確かな資産をいただいた慰めと安心をもって、許されて生かされている地上の歩みを歩みましょう。