この教えがなされたのは祭り、仮庵の祭りの日です。この日は出エジプトの後、荒野での放浪の日々の恵みを思い返しつつ、仮小屋で過ごしながら、永遠の安息の日を待ち望むのです。エゼキエル書のはその日、神殿の敷居から水が流れ出し、川となり、すべてのもものを潤し生かすという終末的預言を語っています(エゼキエル47章)、それは黙示録の「新しい天、新しい地」と同じです。
ここでイエス様は「誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言われます。サマリヤのスカルの井戸でイエスが出会った女には渇きがありました。五回の結婚に破れたからです。私たちも、いくつもいくつも過ちを犯し、何度も何度もやり直そうと思いつつできないことは少なくありません。うまくことが運んだからといっても、伝道者の書が「空の空、すべてがむなしい」と言うような渇きを覚えるのが私たちの姿です。
私たちに溢れる生ける水の川とは、イエスがここに与えるとお約束くださった聖霊です。それはイエスが栄光を受けられたとき、つまり十字架とよみがえり、そして天に昇り、栄光の座に着くときにその救いを信じる者、誰にでも与えられます。
一方、地上を生きる私たちにはマルコ7章に読んだように、内側から出る悪い考えが住み着いています。自分の力ではどうやっても克服できない渇きがあります。やがて、生ける水の川にすべてが満たされる時が来ます。しかし、今はまだ途上です。何度も何度も渇きを覚えるときに、戻るべきところ、十字架の主イエスに帰るならば、心の奥底に生ける水の川をいただき、そこから出る水は私たちを潤し、なお祝福をあふれ出させてくださるのです。そして、その生ける水は時間をかけて私たちに御霊の実を結ばせてくださるのです。その生ける水なる聖霊を受けていますか。真に渇き求める者には誰にでも与えられるのです。