「目が開かれた人の歩み」ヨハネ9:1-7, 24-39 N神学生

 主イエスは道すがら生まれつきの盲人に目を留め、目に泥を塗ってシロアムの池で洗うように言われました。その道のりは急な坂や階段も多く、盲人の彼にとっては簡単なことではありません。信仰なくしてできないことです。彼は主イエスの言葉に従い、目が開かれたのです。

 しかし、その日は安息日だったので、事態は複雑になりました。この人は証言の場に立たされ、会堂追放(村八分)のリスクを負いましたが、淡々と真実な証をします。難しいことは何一つわかりませんでしたが、「私は盲目であったのに、今は見える」「あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか」と人々に問いかけます。それによってユダヤ人の反感を買いました。

 話が進む中で、自らを「見える」と言い張る人々がいかに霊的に盲目であるかが浮き彫りにされていきます。彼らは「自分たちは知っている」という思い込みとプライドのためにイエスの正体がわからないのです。結局この人は追放されてしまいますが、主は彼を見つけ出して近づかれました。主は招きに応じる者を覚え、ご自身とのさらに深い交わりへと招かれるのです。

 私たちもかつては霊的に目の見えない者でしたが、キリストが現れて下さり、目が開かれました。それ故に、以前にはなかった戦いも経験します。主はそんな私たちをご存知で、試みの中にある人を見つけ出し、ご自身を現して下さいます。この目が開けられた人と同じように、私たちの人生にも神のわざが現されるのです。問われてることはイエスに対する信仰です。この時代において、主イエスの証人として生かされる恵みの中を信仰もって歩んで参りましょう。