「目を覚ましていなさい」という言葉と反対に、私たちは目を覚ましていられないときがあります。まずそれは、私たちが疲れているときです。第二は退屈なとき、第三は誰も見ていないときです。緊張が保てません。いのちの目標を見失うと、人は目を覚ましていられません。徒労に終わるような疲れ、目標喪失、誰からも期待されないむなしさ。しかし、神を愛し、隣人を愛するという明確ないのちの意味を見いだすなら、目を覚まして生きることができるのです。
イエス様は、それぞれに務めを委ねてくださいました。一昨年、夏の修養会で廣瀬薫先生が「ビジョン・パッション・ミッション」というススメをしてくださいました。ビジョン、それは「皆が生かされて喜ぶ神の国をつくる」ことです。そのパッションは、この直前で学んだ、「消え去ることがない神のみことば」、そして、御霊に照らされて力をいただきます。そしてミッション、それは、「神を愛し、隣人を愛すること」、キリストに足跡に従って、自分を捨て、自分の十字架を負う愛のミッションをいただいているのです。それは最も身近な人、最もあなたを必要としている人、そこから始まります。
それは終わりの日、ご自身の再臨の日がいつ来てもよいように、目を覚ましてなすべき僕としての務めとしてなすべきことです。その日がいつくるのか、誰も知らない。だから、どんなときにでも、それにふさわしく生きるようにと教えられました。主イエス様が再臨する日、それは終末の救いの完成の日。私たちは天に迎えられます。今、地上でその日との狭間を生きています。だとしたら、天での神の祝福の器として生かされているこの地上で、十字架の主の恵みをいただいている者にふさわしく、期待されている努めに目を覚まして励もうではありませんか。