サマリヤの女、彼女にはどうしても満たされない渇きがありました。対話の中にイエスは真の礼拝とは何かを教えておられます。井戸で水をお求めになったイエスは彼女に「生ける水」をお与えになると言われるのです。
彼女の渇きは相手が変わっても満たされることはありませんでした。5人の夫があったことは、それを示しています。彼女の内側こそが問題であったからです。しかし、彼女はそれを避けて通ろうとします。真っ昼間に人目を避けて水を汲みに来、イエスの問いかけもはぐらかそうとします。そんな彼女のすべてを知り、なお呼びかけておられることがわかったとき、彼女は心を開くのです。
彼女とイエスが語ったことは、礼拝の場所についてでした。エルサレムでもなく、この山でもない、それは霊と真をもって、つまり場所や形ではなく、心からの礼拝をささげるということです。旧約聖書を読むと礼拝をささげてはいても、形式的なものになって心が伴わないことに対する警鐘がいくつも出てきます。カインの礼拝しかり、サウルの礼拝しかり、預言者のことばしかりです。サウルには「「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」と主は言われました。
あなたの礼拝の姿勢はどうでしょうか。礼拝の場に居はします。そこで心からの礼拝をおささげしているでしょうか。形ばかりのものになってはいないでしょうか。すべてを知りたもうお方の前に心からの礼拝をおささげするならば、あなたの渇きが潤されるだけにとどまらず、泉となって周りを潤すように主は招いておられるのです。それこそが真の礼拝者の姿です。