この箇所のテーマは約束と律法です。十字架に贖いによる恵みの約束を信仰によっていただいた。ならば、御霊に導かれて喜んでそれにふさわしく生きようと願う。そこには愛と思いやりがあります。一方、律法を守ることは肉による努力の世界。そこには、してはならない、しなければならない、できたできない。それが、周りをさばき、自らを比較して高ぶる。どちらの世界を生きるのかが問われています。
神の約束・契約は変わりませんが、人にとってよりはっきりするために契約ということばが使われています。それは神が恵みを必ず与えるという一方的な契約です。アブラハムに「子孫に」と言うとき、それはキリストを指します。イスラエルの歩みは約束のキリストを生み出す溶鉱炉のようなものです。あくまで人が罪人であること、同じ過ちを繰り返す者であること、神は預言者を通して何度も呼びかけられ、見捨てることなく導かれましたが、イスラエルはかなかすに過ぎず、真の救い主キリストが生み出されることを示すのです。
一方、律法は430年後に与えられました。律法には大切な役割がありました。①律法は罪を明らかにします。律法のないところ、罪の基準はあいまいです。②律法はキリストの来る時までのものです。主イエスは律法を成就し、形ばかりになった律法に「しかし私は言います」と権威をもってお教えになりました。③律法は罪を明らかにしますが、救う力はありません。④律法はキリストへ導きます。ルターはこう言います。「律法の目的は人を良くすることではなく、悪くすることである。言い替えれば、それは、罪を示し、罪を知ることによって卑しくされ、脅かされ、打たれ、砕かれ、このことによって恵みを求めるように駆り立てられ、そしてあの祝福された子孫、すなわちキリストのもとにやって来るようになる。」約束を信じる信仰によってのみしか、私たちが救われる道はないのです。