ネヘミヤ記は捕囚から帰還した民がエルサレムの城壁を再建するストーリーです。ダビデの時代、国は祝福され、北はユーフラテス、南はエジプトの境までを従えました。しかしその繁栄もわずかな間で、国は傾き滅ぼされ、捕囚の憂き目に遭います。その原因は「神の宮をないがしろにした」からです。
捕囚時代の初期、ダニエルはエルサレムの荒廃が終わるのが70年であることを知らされ祈ります。「不面目は私たちのもの。」その思いの中には「こんなはずじゃなかった」という失望が覆っています。一方で「あわれみと赦しは主のもの」だと祈り求めるのです。ネヘミヤもそうでした。70年が満ちて帰還が許されても、復興は遅々ととして進まず、いまだエルサレムが荒れ果てたままであることを知らされ、彼も悔い改めをささげます。道が開かれて城壁を再建します。内に外に様々な障害が起こりますが主にあって乗り越え、さあ、これから再出発というときに、彼は「神の宮をないがしろにしない」ため、どのように献げるかを決めたのです。
第一に礼拝のためにシェケルの三分の一を礼拝のために、第二に初なり、初子をささげることを通して感謝を、第三に土地や収穫の十分の一を宮の礼拝のために働くレビ人を支えるために献げる。継続して宮での礼拝が行われるように決めたのです。しかし、それもそうそうに守らなくなります。実に続けることは難しいことです。
私たちの礼拝生活も同じです。だからこそ主は安息日を与えてそれを振り返り、心新たにするようにと招いています。六日間を主に献げて一生懸命働く。また主の前に献げ整えて一週間を生きる。心からの献金を献げる。それを通して神の赦しとあわれみからそれることなく歩もうではありませんか。