変貌山でのイエスの輝かしい栄光のお姿とは裏腹に、山を降るとそこでは、口をきけなくする霊につかれた息子をいやすことができない弟子たちの姿がありました。これまでもいやしの記事は多くありましたが、ここでは弟子たちがどうしてできなかったのか、あるいは父親に対する問いかけ、イエスの嘆きの方が記録の中心になっています。
弟子たちにできなかった理由、それは、「いつものようにというおごり」でしょう。これまでも弟子たちはイエスに遣わされていやしをしてきました。ところが今回はできなかったのです。それをイエスは「祈りによらなければ」と仰います。祈らなかったわけではないでしょうが、祈りがただの習慣、惰性の祈りなっていたことでしょう。旧約聖書のサムソンもそうでした。特別な神の力を与えられていましたが、「いつものように」というおごりが彼の力を失わせました。実に私たちの中にはそのようなものが入りやすいのです。
父親はイエスに「おできになるなら」ということばを使います。イエスの問いかけに、彼は「信じます。不信仰な私をお助けください」と叫びます。そこには信仰と不信仰が同居しています。彼の不信仰、それは、神に拠り頼む全き信仰ではなく、自分のために神の力を利用するような、あくまで自分を中心とするあり方です。それを覚えながら、そんな者にあわれみかけて下さいと願うのです。彼は自分のための神ではなく、神あっての自分という転換を彼は迫られたのです。
そんな弟子たちのあり方に、「いつまであなたがたにがまんしなければならないのか」と言われる主。しかし、それを忍び、実に十字架まで忍耐して私たちの救いとなってくださいました。おごり、あるいは不信仰な自分本位のあり方ばかりな者たちでも、主は決して捨てることがないのです。それが私たちの慰めです。祈りによって主と共にあろうではありませんか。