「祝福の器として」創世記47:1-12

 私たちは裸で生まれ、裸で死んで行きます。どの時代に、どこに、どの親から生まれるか選ぶこともできません。そして、「私たちの齢は七十年。 健やかであっても八十年。しかも、そのほとんどは 労苦とわざわいです。」と詩篇は語ります。それでは、そのいのちは何のため。ヤコブの最後、疎開先のエジプトで世話になるエジプトの王を祝福します。「いろいろなわざわいがあり」と述懐するヤコブの生涯を「祝福」をキーワードに学びましょう。
 ヤコブの始まりは祝福を奪い取るところから始まります。父イサクを欺き、長子の祝福を奪い取ります。彼は次男でした。選びようもないそれを彼は自ら貪りました。結果、兄エサウの怒りを買い、叔父ラバンの元に身を避けなければなりませんでした。そこで彼は神に出会います。神は「あなたをこの地に連れ戻し・・・あなたを決して捨てない」と語られるのです。天と地をつなぐはしごを御使いが上り下りしている夢です。
 ラバンのもとで20年仕えた彼は、故郷カナンに帰ります。恐れがありました。兄の怒りです。ヤボクの渡しで神と格闘します。そのとき彼は「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」と食らいつきます。神はそこで彼にイスラエルという新しい名を与えます。その意味は「神が支配したもう」という意味です。自分の弱さを認め、神抜きに生きられない。だから、神のご支配こそが祝福だと彼は悟ったのです。
 それにしても、彼は意に反して自らが選んだわけではない出来事に翻弄されます。二人の妻に二人のそばめ、そこに生まれてくる息子たち。そこに起こる争い。エジプトに売り飛ばされたヨセフ、でもそれは飢饉のカナンから救うための神のご計画でした。そして、すべてを受け入れ、その最期に、パロを祝福するのです。私たちの短い生涯、神の祝福こそが、唯一確かに残すことのできる宝なのです。