私たちに与えられた救い、それは私たちが「世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となる」こと。それがゴールです。だからこそ、「あらゆる努力をして」とペテロは言うのです。
努力ということばは、力を尽くしてとも訳されています。新改訳聖書はあえて努力ということばを使っています。イエスは、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして」神を愛し、隣人を愛すことこそ律法のすべてだと言います。ところが人は勘違いをしています。戒めを守ることに終始するとき、それは何のために守っているかが本末転倒になり、正しく行っている自分を誇りとするようになるのです。私たちの勘違い、それは努力の向きです。自分の幸せ、平安、自喜び。向かう向きがズレてしまうのです。
しばしば見落とされてしまう問題は、律法が幕屋とセットで与えられたことです。律法が与えられた目的は、神の基準を示し、人がへりくだって悔い改めること。そして幕屋の中心は、いけにえによる罪の赦し、そして神礼拝です。今やそれは十字架の贖いにとって変わりました。神の御前に「何もよいものはない、とるに足らぬ罪人」。それが努力するということは、神の恵みを握りしめて離さないこと、ただその一点です。
そして、そのような努力を重ねる者たちが目指すべき姿、そのリストに書き連ねられたのは神のご性質です。どれかがあって、どれかがないということではありません。みな必要なものです。役立たない道具は捨てられます。実を結ばないものは切り捨てられます。ふさわしからざる者であることを認める謙遜を十字架の贖いに応え、ただ祈り願い、神のお役に立ち、あるいは実を結ぶ歩みをしようではありませんか。