「祭壇を築く」創世記22:1-14

 礼拝という言葉、旧約聖書では元来「ひれ伏す」ことを指す言葉です。アブラハムやロトが御使いを迎えたとき、ヤコブがエサウに再び会うとき、エジプトのヨセフの前に出る兄弟たち。十戒の偶像を拝んではならないと言われること。礼拝の本質とは、力ある方の前に「ひれ伏し、ひざまづき、へりくだって拝し、仕えること」です。

 今の時代、ひれ伏し拝することは日常生活の中にはありません。絶対なるものへの恐れのないところ、モラルはなくなります。しかし、かつてそのような時代がありました。戦時体制中、国体の象徴たる天皇は偶像化されました。しかも、いのちさえも捧げられるように強要されたのです。一方、私たちの礼拝はよみがえりの主の御前に、圧倒的な権威と力、その前に恐れをもってへりくだり、一方で感謝と喜びをもって、礼拝するのです。

 最初の礼拝、カインとアベルのささげものです。彼らの後、セツの時、「主の名を呼ぶことを始めた」ことが出てきます。そして、それは祭壇を築くこと、そこでいけにえを献げることと結びつきます。

 アブラハムはそのような礼拝への試練を与えられます。かけがえのないひとり息子であるイサクをささげることを求められたのです。彼はどうしたでしょうか。第一に、彼は翌朝早く、つまりすぐに従います。第二に、若い者たちを残していきます。向き合わなければならないとき、神の御前にひとりの人として問われます。第三に、神の最善を信じることです。イサクを献げたら、「空の星、海の砂」という約束はどうなるでしょうか。

 礼拝、それは私たちの都合ではなく、神にささげることが求められているのです。私たちのために神がおられるのか、神のために私たちがいるのか。この圧倒的な力と愛とあわれみの神の御前に恐れとへりくだり、感謝と喜びをもってささげようではありませんか。

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