「私たちは変えられる」第二コリント3:6-18

 喜びとはギリシャ語のカイロー、挨拶です。新約書簡それぞれの最後では、聖なる口づけをもって挨拶しなさいと勧められています。ところが、私たちの心には挨拶できない心、赦せぬ心や猜疑心、避ける思いなどが起こるものです。そのとき、「しょせん罪人、期待もやっぱり外れ、しかたがない」などという言い訳が心に入ってきます。

 さて、ここでは旧約と新約という二つの分水嶺が描かれています。旧約は、「律法を守り行うなら、恵みは千代まで!」という契約です。出エジプト34章が引用されます。モーセは神とまみえ、石の板に契約のことばをいただいて山から下りてきます。民はその神の栄光を見ることができず、モーセは顔に覆いを掛けました。そして石の板は契約の箱に、幕屋の至聖所に安置されて覆い隠されたのです。民はと言えば、律法を守ることができません。旧約の歴史は律法は人を救うことができない罪人であることの証明です。

 一方、新約はどうでしょう。キリストの十字架の贖いによってよって覆いは取り去られました。主が命を捨てられたまさにその時、神殿の幕は上から下まで真っ二つに裂けました。覆いが取り払われたのです。神は遠く離れたところにおられるのではなく、私たちの内に住んでくださるのです。

 その恵みをいただくただ一つの条件は「人が主に向くなら」(16節)です。内に住んで私たちを導かれるのが聖霊です。心に罪の思いがよぎるとき、神の栄光、愛と一致の素晴らしい姿、キリストの贖いを私たちにも示してくださるのです。一時に何もかもが変わるのではありません。栄光から栄光へと、少しずつ少しずつ、一歩一歩、造り変えられていくのです。聖霊に導かれて主に向き、喜びの人にさせていただきましょう。

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