家族に働く「均衡」という力学、イエスの家族も同じように「気が狂ったのだ」という声に連れ戻しにやってきます。ところが、イエスに近づくことすらままなりません。イエスはその呼びかけには答えず、まったく別のことを言います。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか・・・ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です。」
ヨハネ2章にはカナの婚礼で、イエスが水をぶどう酒に変えられた奇蹟が記録されていますが、イエスと母との会話は不思議です。ぶどう酒がなくなって求める母に、イエスは「女の方」と呼びかけ、母は「あの方が言われることは、何でもしてください」と言います。時間的な順序から言うと、イエスの家族がどこかで変わったのです。この血肉の家族を超えたお方、人を超えたお方であることを受け止めて、この後、行動をともになさったのです。
家族には所有意識、「私の」息子、娘…がつきまといます。もう一つ、依存・甘えが働きます。ところが、ここにその血肉の家族に働く原理を超えて、神の国の新しい原理が入ってきたのです。それは「神のみこころを行う者はみな兄弟姉妹、母」ということです。
山上の説教の中には神のみこころがでてきます。「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:48)「完全なんてムリ、ムリ。だって、人間だもん。所詮、しょうがない。」私たちはそう思います。完全を求められても、私たちは言い訳をして甘えます。それを越えて、聖霊が導く「神のみこころ」に従い生きるとき、血肉を超えた神の家族、その幸い恵みが、自分の家族にも、周りにも拡がるのです。エペソ5章にはその実例、「キリストに従うように、キリストが愛されたように」という原理が出てきます。新しい神の家族を生きようではありませんか。