「私の決意、主のあわれみ」マルコ14:27-31

「私の決意、主のあわれみ」マルコ14:27-31
 「つまづき」ということばは、私たちもときに使います。私たちは互いに人につまづき人をつまづかせたりします。しかしここでは、父なる神が羊飼いであるイエスを打ち、羊である弟子たちはイエス様につまづいて散らされるということです。つまづいたとき、持てるものが露わになります。弟子たちであれば、イエス様なくしては散ってしまう、それぞれが野心を持つ烏合の衆だったことが明るみに出ます。
 このつまづきの予告に、ペテロは「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」 と言います。さらに、「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と言います。それは他の弟子たちも同じです。ところが、すぐにことが起こり、弟子たちは散り散りに逃げ、最後まで付いていったペテロもイエスを三度知らないと否むのです。人の決意、その時は本気です。すべてです。ところがそれはもろく弱いものに過ぎないのです。
 そのようにつまづく弟子たちですが、イエス様は先んじてガリラヤへ行き、弟子たちを招いてくださいます。ガリラヤに行った弟子たちは漁にでます。夜通し働いても何も捕れない。そこに岸辺からイエス様が声を掛けます。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」すると153匹の魚で満たされます。ペテロが最初にイエス様に従い始めたときと同じです。そこで、イエス様は朝食を整えて弟子たちを招いてくださいます。
 その後で、ペテロに、「私を愛するか」と3度尋ねます。とてもお答えすることのできるような者ではない。そのペテロに「私の羊を飼いなさい」と使命を委ねてくださいました。「野心」でイエスに従いて行った弟子たちは自らの決意むなしくされました。へりくだって、あわれみによってしか立つことのできない空の器であると明け渡す者を主は導いてくださるのです。