弟子たちは神殿を見て、その素晴らしさに圧倒されます。ところがイエス様はそれが徹底的に破壊されるときが来ると仰るのです。神殿の前身は幕屋です。出エジプトの民に律法と対で与えられたものでした。律法は神の基準を示し、それにかなわぬ人の罪を教え、幕屋は悔い改めと救いを表す祈りの場です。神殿はあくまで器に過ぎないのです。ところが、器であるものが主役になるのです。私たちは目に見えるものに惑わされ、心を奪われやすいのです。
イエス様はこの後、ご自身のからだをして神殿のすべてを成就されました。今、私たちに与えられているのは、そのキリストを信じる信仰です。それを告白する「祈り」こそが、神との交わりの場として求められているのです。
その終わりの日の予告に弟子たちはいつかと問い、イエス様はいくつかのしるしをして惑わされないようにと仰います。確かなものを持っていない人たちは惑わされます。私たちは普段やっているようにしかできません。その時になっても普段やっている以上のことはできません。惑わす声のたくさん聞こえる中、私たちは目に見えるものに惑わされることなく、主にあっていただいている確信を握りしめたいと思います。
最後に、激しい迫害が襲いかかることが語られています。このような迫害は、主イエスの時代から初代教会、今に至るまで、形は違っても、ずっと続いています。そして、その中で代々のキリスト者たちと教会はむしろ証しをしてきました。そうです。これから起こるべきことをあらかじめお話になったイエス様はその心備えをし、耐え忍びなさいと言われます。目に見えるものに頼らず、キリストご自身に救いがあるのだから、惑わされることなく、心配せずに耐え忍べ。これがイエスが私たちに求めておられることです。