「自分を捨てる愛」イザヤ53:7-9

 「きよしこの夜」の歌の歌詞はどこかクリスマスの出来事の意味がぼやけた感がぬぐえません。実はオリジナルには、6番まで歌詞があります。それは罪からの救い主キリストがこの夜、人となって私たちのところに来られたというメッセージです。今日の箇所はそのなかでも受難の出来事を預言しています。

 イエス様の受難、それは逮捕から始まります。ユダの裏切りは親愛を表す口づけ。他の弟子たちも散り散りに逃げてしまいます。なんという裏切りでしょうか。いったい誰が私の味方なのか。誰もいない。そして、捕らえられた先のカヤパの官邸。罪状があって捕らえられたのではなく、なんとしても葬り去るための審問です。世界のすべてを敵に回したような出来事です。

 ピラトのもとでの裁判。彼は罪がないことが分かっていながら、自らの保身のためにイエスを引き渡します。群衆はバラバかイエスかの選択を迫られます。バラバは暴動と人殺し、いわば目的のためには手段も選ばずどんなことでもする人の代表です。人々はそれを選びます。正しいことが通らない。矛盾だらけの世界です。そして、我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですかと叫ばれたのです。しかし、これら一切の受難、それは自ら、あえて選ばれたことでした。

 それに先立つゲッセマネで主は祈られました。「できることならこの杯を過ぎ去らせて下さい・・・しかし、私の願うようにではなく、あなたのみこころのままをなさって下さい」と。自らを明け渡したのは愛ゆえです。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」(2コリント5:21)。主は私たちが受けるべき苦しみを負って、十字架に死に、贖いとなってくださった。その恵みを覚え讃えるクリスマスとしましょう。