「苦しみが癒えるまでには」創世記42章

 エジプトでのヨセフは、マナセとエフライム、二人の子どもたちの名前に表れる祝福をいただきます。しかし、過去とは決別、きれいさっぱりになったということにはなりません。神の私たちに対する御思いは、エペソ5章にあるように、「しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないもの」となることです。
 7年の飢饉が始まり、カナンの兄たちはエジプトに食料を買いに行きます。そこでヨセフは彼らに出会い、かつて見た夢を思い出します。ファラオの夢を解き明かしたヨセフですが、自分のことはわかりません。人は残念ながら、自分のことが自分でわかりません。当てにならないのです。周りの人はよきにしろ悪しきにしろ、私たちを映し出す鏡です。それをしてはじめて自分のことがわかるのです。神が取り扱われるのです。
 ヨセフがエジプトに売られたのは17歳の時です。それから30歳で今の地位に就き、豊作の7年を終えてですから20年の年月が流れています。機会があればカナンに行くこともできたでしょう。ところが傷に触れようとはしませんでした。兄たちが来ると、彼らに回し者だと言いがかりを付けます。すると、そこで兄たちが互いに言う言葉に、ヨセフは泣きました。知らないでいた兄たちの心を垣間見たからです。そして、私も神を恐れる者だと言います。
 一芝居打って、ヨセフは兄たちに銀を持たせたます。彼らもまた「神はいったい何をなさったのだろう」と言います。ヨセフも兄たちも神のみこころを求め始めます。それが解決に導かれるのにはまだ間がかかりますが、神がこの古傷を取扱い始めます。いや、それ以上のご計画を持っておられます。私たちも同じです。蓋をしているままでいる未解決の思い。神が傷をいやし、聖い者に導いてくださる神に祈ろうではありませんか。