ペテロの手紙で私たちの人の関係、そのキーワードとなるのは、1:22の「互いに熱く愛し合いなさい」という言葉です。ところがそれは兄弟姉妹の間、実際には、そういかない一方通行の世界が私たちの生きる世です。しかも、ペテロの勧めは横暴な主人に対しても。今で言うブラックです。そればかりではありません。パワハラ、モンスターにクレーマー、それは時代も文化もこえて、罪の世に生きる私たちの戦いです。
ペテロは「自由人」ということばを使いました。私たちは「私のこと」、「あなたのこと」区別なく振り回されることが少なくありません。私たちは神のかたちに造られ、「自ら考え、自ら決断し、自ら公同する」人格と自由を持っているはずです。しかし、それが掻き乱され、させられている、強いられてると受け取るようなことが少なくないのです。それが、ここで言うように、神の奴隷として従うこと。どのようにできるでしょうか。
それは、キリストの模範に従うことです。キリストの受難、それはゲッセマネの祈りを通して、自らを明け渡して神に従うことを選びとったことでした。そのように召されている。召しとは呼ばれること。コーリング。ペテロ自身、人間を取る漁師にと呼ばれ、自分をすて自分の十字架を負い、私についてきなさいと呼ばれ、さらに復活のイエス様が、私を愛するかと3度聞いたあと、「あなたは私に従いなさい」と召してくださいました。そのペテロがキリストの足跡に従うことのために召された。
それは自ら、振り回されずに一線をひき、キリストの受難の足跡、その模範に従うとき自らの苦しみは十字架の愛と重なり、自らの悩みはキリストの愛と重なり、不平不満ではなく、恵みしてくださいと祈りましょう。