「荒野の誘惑」マルコ1:9-13

 イエスは荒野で3つの誘惑を受けられたことはマタイの福音書に記されています。一方でマルコの福音書には触れていません。別の意図があるのではないでしょうか。

 イエスが誘惑にあわれたのは荒野です。荒野は原野とは違います。元々の意味には不毛なところ、助けや保護、大切なものを奪われたところ、孤独で寂しいところ、心の支えや希望を失ったところというような意味を持つことばです。例えて言うならば、原発でうち捨てられた町。それも人が産みだしたもの。荒野を作るのは実に人とその罪です。

 人が最初に住んだ場所はエデンの園。楽園です。彼らはそこを耕し、堕落して地が呪われる前のことです。喜びの場でした。しかし堕落の結果、地は呪われ、野の獣を恐れなければならなくなりました。しかし、獣よりも恐ろしいのが人間です。そのために戦々恐々とします。あなたの生きる場、そのものがまさに荒野、こんなにたくさん人がいるのに誰とも心通わすことができない孤独や寂しさ。そんな中を生きていないでしょうか。

 四十という数字は試みの数です。聖書の中にたくさん出てきます。イエスの誘惑、そこで野の獣のいる荒野で御使いたちが仕えて守られた。荒野を生み出す罪の誘惑に打ち勝たれたのです。それがこのマルコの福音書が語る「福音のはじめ」です。

 救いの日、そのアダム以来、罪の故に荒野になってしまったこの世に、勝利と回復が与えられるのです。その先駆けこそ、イエスであす。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」と父なる神が呼んで下さるからです。このお方が、先駆けとなって私たちを導いてくださる。自らが生み出す荒野、罪の世の荒野の中にあっての勝利。これこそ福音なのです。