私たちは神の恵みによって選ばれ、天に約束された永遠のいのちの恵みをいただくものとされている。それが生ける望みであることを確認したペテロは、一方でこの世にあっては様々な試練に遭うことを語ります。
初代教会の歩み、使徒の働きを読むと、そこには様々な試みがでてきます。一つは迫害です。捕らえられ、脅され、牢に繋がれ、殉教する者も起こる。一方で、教会の中にも試みが起こります。アナニヤとサッピラの事件は偽りが入り込む、食べ物の配給のことで不平が起こる。真理の根幹に関わるような問題ではなく、実に生活の小さなことと思えるようなできごとの中に交わりを壊すような出来事が起こるのです。「歌を忘れたカナリヤ」のように、悲しみと試練に押しつぶされるようなことが起こるのが私たちの歩みです。
しかし、その試練とは火で精錬される金のようなものだとペテロは言うのです。金は熱せられ、溶かされて不純物を取り除かれていきます。私たちの罪のからだも同じように聖化されていくのです。コロサイ3章には、私たちが捨てるべきものが書かれています。たとえば「怒り、憤り」。普段は眠っているもの、しかし、試みられたとき抑えがたく表に表れます。そのとき、御霊の取り扱いをいただいて、悔い改めるのです。
そのように私たちの地上の生涯は何度も何度も試練を経て純化、聖化されて、本当に大切なものだけが残されるのです。この世のものはみな「朽ちるもの、汚れるもの、消えていくもの」。しかし、金よりも尊いもの、それはやがてイエス・キリストの表れのときに迎えられる天での称賛、光栄、栄誉。罪のからだを脱ぎ捨てて栄化されるとき。悲しい出来事に押しつぶされることなく、望みをもって歩もうではありませんか。