「誤解と迫害と悩みと」使徒21:27-40

 パウロは迫害を受けること、死の覚悟までしてエルサレムに来ました。そこでアジアからのユダヤ人はパウロが異邦人を宮に連れ込んだと思い込んで手をかけるのです。残念ながら真実は時間をかけて説明しても理解されるわけではありません。むしろ溝が深まるばかりということが少なくないのです。

 なぜ、このような誤解や迫害、そしてそれがゆえの悩みを受けるのでしょう。それはそもそもことを測るものさしが違うからです。違うものさしで測るなら、一致するはずがないのです。ここではユダヤ人がユダヤ人のものさしでパウロを測ります。世のものさしは第一に「みんなが」ということばを使います。第二に一つのミスや間違いをして、その人全体を評価し否定します。第三に自分たちのルールを作り、それに従うことを要求します。そして最後にものさしに合わないとカルト扱いするのです。パウロの場合がまさにそうです。

 マタイ5章の山上の説教でイエスは「義のために迫害されている人は幸い」であり、それを喜べと教えました。それは天の住人のしるしだからです。そして、なお世と違うものさしを持つあなたがたは「地の塩」であり、世に使命を持っていると励まします。

 一昔前、戦前戦中の教育を受けた人たちには「教育勅語」というものさしがありました。戦後、それがなくなって、ものさしはバラバラです。だから世が混乱するのは不思議なことではありません。その中で私たちには役割があります。妥協や小細工をして合わせるのではなく、神を敬う生き方が世にはない愛や誠実、感謝の心や喜びを表すとき、主にある希望があかしされて、地の塩となるのです。そこには悩みも伴いますが、主イエスの十字架を覚え、献げようではありませんか。

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