「赦される幸い」ヨハネ8:1-12

 私たち人は、「ありがとう、ごめんなさい、赦します」という3つのことばがあったら、共に生きていくことができます。しかし心は「あたりまえ、そっちが悪い、赦せない」と正反対のことを思います。主の祈りの「私たちの負い目をお赦しください」と祈っても、「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」ということはなんと難しいことでしょうか。
 ここに姦淫の現場で捕らえられた女がイエスの前に連れ出されてきます。それはイエスを訴える口実探しのためでしたが、イエスは「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」と言われます。すると、年長者から順にいなくなり、最後に残された女にイエスは「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」と言われます。
 罪を犯さない人間は一人もいません。私たちは罪を正当化します。受けた傷を赦せず、恨みや復讐心をいだくようなこと、でもそれは、罪の縄目、連鎖、そして奴隷です。歳を重ねれば重ねるほど、生きてきた数だけ、それを認めざるを得ません。しかし、イエス様はここで赦しを告げます。それはこの後、十字架にいのちを捨てて贖いをする。それがゆえの「わたしもあなたにさばきを下さない」なのです。
 そして、「これからは罪を犯してはなりません」と言われます。それでも一度ついたレッテルを背負って生きることは簡単なことではありません。どこに行ってもつきまとう過去を消すこともできません。しかし、赦された恵みは、赦されたように赦す、愛されたように愛す。それが新しい彼女の歩みとなったことでしょう。イエス様が来てくださったのは、そのように私たちに救いを与えてくださるためです。あなたも十字架の贖いで赦された。だから、赦されたように赦す。愛されたように愛す。それを心新たに祈ろうではありませんか。