この箇所は元々ヨハネの福音書にはなく、挿入された可能性が大きいです。なぜでしょう。「赦し」というメッセージは私たちにとって極めて難しいものです。イエス様は7を70倍するまでと言いましたが、私たちは「でも、だって」と思います。何でも赦されるなら正義が保たれないような気がするのです。初期の厳しい倫理感を持つキリスト教会にとって、省略されたものであったのかもしれません。
さて、イエスをためすため、姦淫の現場で捕らえられた女が連れてこられます。イエスは「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われました。すると年長者から始めて一人一人出て行き、誰もいなくなります。ここが伝えるメッセージは二つです。誰一人して罪のない者はいない。そして、罪ある人間は人を裁くことなどできないということです。
最近、義憤を表す人が増えました。モンスター○○とつくものやクレーマーです。自分は義しいことを言っているのだから、当然だと憤るのです。ある方が、それを次のようにまとめました。自分の考えを「普通の人は」とか、「みんな」という大きなカテゴリーに置き換えて、その代表のように言う。全ての行動の中から、一つでもミスや間違いを見つけると、その人の信用力全体を否定する。自分でルールを作り、それに従ったかどうかで相手を評価する。そんなことに戦々恐々とする世です。
イエスは罪を赦す権威を持っておられ、彼女を赦します。そう、赦せぬ思い、憎しみに支配されて生きるほど不幸なことはありません。なお、真の赦しのみが世界を変える力なのです。主に赦された者にふさわしく、人を赦すとき、あなたから世界が変わるのです。
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