「神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者」、これはキリスト者の自己理解、私は何者であるのかをまとめた大切なことばです。とても選ばれるにふさわしい器ではないのにもかかわらず、神は選んでくださった。そして、聖なる者と呼んでくださる。古い人は欲と感情に支配され、自分のことしか考えないような罪深い者だったのにも関わらずです。そして、キリストの尊い十字架と復活の恵みに入れられた愛された者。だから、その上に立とうと呼びかけているのです。
続いて新しい人が着るべき心のあり方、生き方です。まず教えられるのは、「深い慈愛の心と親切」です。それは苦しみや痛みを抱えた人への「心づかいと行動」です。人間、危急のときには自然と心動きます。しかし日常、どれだけ周りの人の心に寄り添ってその心を伺い、思いを汲み取り、支えになっているでしょうか。
そして、謙遜と柔和。それは人を見る目と自分を見る目です。取るに足らない、愛の足りない罪深い私であることを覚え謙遜にへりくだり、周りに対しても柔和にことを受け止める人になることです。
さらに寛容、忍耐と不満があっても互いに赦し合うという勧めのことばです。「ごめんない。赦します。」ということがあれば、私たちはどんなに平和なことでしょうか。しかし簡単なことではありません。犠牲を伴うからです。だから、「主があなたがたを赦してくださったように」が鍵なのです。
最後に結びの帯としての愛です。いろいろなものを身に着けても、最後、帯を締めないと締まりません。帯を締めた人はスクッと立ちます。無我夢中の時には気を配っているゆとりなく、ふっ飛んでしまいそうになることもあるでしょう。でも、もう一度、帯を締め直しなさいと言われているのです。古い人を殺し、捨て、恵みの器として、愛の帯を締め直して歩んでいきましょう。