「道理にかなった信仰なのに」使徒26:19-32

 「わかっちゃいるけどやめられない」というスーダラ節が一世を風靡した時代がありました。歌った植木等さんが歌にためらいを覚えて住職だった父親に相談すると「親鸞の教えに通じるものだ。素晴らしいから歌いなさい」と言われたそうです。他力本願、人は自らを救えない。実にそれは真理です。それでは真の救いはどこにあるのか。それがパウロの証ししたことです。彼の証しの中心は23節にある十字架と復活です。

 十字架。それはひと言で言えば贖いです。ユダヤ人にとってのそれはいけにえと同義でした。祭司を通して犠牲の動物をささげ、その命のしるしである血を差し出すのです。キリストがそのいけにえ、身代わりとなってくださった。自らを救えない人間は罪の連鎖の中を生き、それすらわからなくなっている暗やみから光に照らされ、そしてキリストの贖いを通して赦しを与えられたのです。

 復活。それは勝利です。「わかっちゃいるけどやめられない」というのは敗北です。罪と死、この人の敵に主は勝利くださったのです。10年という歳月を考えると年を取ったこと、地上の生涯に限りがあることを覚えるでしょう。それが敗北の人生でいいのでしょうか。そう、主は私たちに新しい命を与え、勝利の人生を歩むように招いてくださったのです。自らの力ではなく、御霊を与えて実を結び、永遠のいのちの希望に生きる人生です。

 パウロの証しを受け取る者たちは三者三様です。フェストはパウロが博学のあまり気が狂っていると言い、アグリッパは「わずかなことばでキリスト者にしようとしている」と心動かされます。しかし、ここに問われていることは、それを信じるか否か、主イエスに従うか否か。その二つに一つです。あなたは今、どちらを選びますか。

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