「集まること」の定義がずいぶんと変わりました。コロナの状況下で、今まで通りに集まることのリスクを避けるために、インターネットを使うようになりました。それは教会だけではなく、人が集まるところどこででもです。フィジカル・ディスタンス、人と人との距離をとるためにそうしてきた訳ですが、それはテクノロジーの進歩とともに比較的簡単にできるようになったからです。そういう営みがまもなく一年になろうとしています。
「これでいいのだろうか」というちょっとしたためらいを感じつつも、さほど抵抗なくオンライン礼拝や交わりをするようになりました。スペイン風邪やペストが流行した時代の人たちはどのように教会生活を送ったのだろうかと思います。誰もが不安になり、誰もが恐れを覚える状況。しかも、医療の態勢や技術はずっと乏しかったわけですから。
改めて考えさせられるのは「集まること」の意味です。それは当たり前だったのですから、意識してはきませんでした。その恵みというもの、失ってみて初めて意識に上ることであり、うまく「言葉にならない」のです。「神は愛です。」それはどのようにしてわかるのか。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(1ヨハネ4:10)とあるのと同じです。
その問いを続けることが大切ではないかと思います。顔を見るだけで嬉しい。そこにいるだけで嬉しい。それは、やがて「天で一つに集められるとき」と同じです。地上でともに集まることがこんなにも大きな喜びであるのなら、天ではなおのこと。そこでは今地上で離ればなれになっている者も、悲しみの記憶で分断された者も、先に召された者たちも、時代も民族も男も女も、すべての隔たりが取り去れて一つに集められる。教会の交わりがその先取りであるようにと願います。