「すべては神のなさること」創世記41章

 献酌官が恩を忘れて二年、ようやくヨセフが顧みられるとき、神の時がやってきます。ファラオが夢を見るのです。心が騒ぐファラオですが、誰も夢を解き明かすことができません。ときに献酌官がヨセフのことを思い出すのです。ヨセフは夢を解き明かし、さらにこれから起こる大豊作の7年と飢饉の7年についての進言をすると、国を司る者に大抜擢されるのです。
 夢を解き明かしただけでそのような扱いを受けるとは深い信頼を得る仕事ができたのでしょう。お坊ちゃん育ちのヨセフです。ポティファルの家で管理を委ねられたこと。監獄の中で複雑な思いを心に抱えた囚人たちの世話をしたこと。すべての経験がヨセフを成長させたのでしょう。ヨセフの視点に立つならば、苦しい時でした。一方、神の視点に立つならば、時は動いています。そして、ヨセフを訓練くださり、ちょうどよい時に引き上げてくださるのです。
 それにしても成り上がりは人を狂わせます。謙遜になるとは何と難しいことでしょうか。「あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」(1ペテロ5:5-6)とあるように。人だけを気にしていたら、謙遜にはなれません。神の前にどうかということを問うとき、人は謙遜をいただくのです。
 ヨセフは妻と二人の子を得ます。マナセ、それは『「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」から』、エフライムと名付けます。『。「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」から』。そのように言い得たヨセフはすべての苦しみを覆う恵みという慰めをいただいた。そして、慰めはヨセフ一人の話にとどまりません。エジプト全体をあるいは周囲の国々を救うために用いられていくのです。
 私たち一人一人にも同じことが問われています。神の時を待ち、謙遜に仕え生きるときに、神が慰め用いてくださるのです。