著者は、信仰者が通される「主の訓練」に触れます。私たちが間違いを犯すときに主の懲らしめを受け、また、あらゆる訓練を受けているということは、神が私たちを子として関わっておられる神の愛の現れなのです(5-7節)。
肉親の父も私たちを懲らしめ、訓練します。けれども肉親の父は「短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめる」(10節)のです。どんな親でも、親自身が皆、罪人であり、不完全で、不真実で偏りがあり、時には偽りさえあるものではないでしょうか。けれども霊の父は、完全な愛と義、そして聖さを持ったお方で、全生涯に亘って私たちの益のため、ご自身の聖さにあずからせようと懲らしめ、訓練するのです。(10節)
これは大きな違いです。私たちの誰もが大切なことは、肉親の親から自立して、一人神の前に立ち、霊の父と共に生きていく信仰者へと成長していくことです。霊の父は時に自分にとって良いとは思われない試練や苦難、状況や人を用いて、私たちの心をお取り扱いになります。そして私たちの硬い心、プライドや自負心、高慢の心を打ち砕き、絶えず柔和な心にしようと働きかけてくださいます。
主が多くの「そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われる」(11節)訓練を通して最終的に与えて下さるのは「義の実」です。それは魂の父にしか与えられない恵みの賜物です。
ですから、私たちは、与えられる幾多の「霊の父の、愛の訓練」に怖気付かずに、むしろ信頼して、悲しみや痛みの先には喜びと希望がある事を心に留めながら、信仰の走路を、信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離さずに走りつづけようではありませんか(2節)。