あきらめと受容と寄り添うこと

 長年連れ添ってきた奥様を亡くされた先輩牧師二人の様子が気になってお電話を差し上げました。一人は昨年、一人は一昨年、それぞれ奥様を病で天に送りました。気になるのは食事です。「ちゃんと食べてる?」、「それが10kg、体重減った」、「大丈夫?」、「まぁ、なんとか」、「コロナが落ち着いたら、一緒に食事しよう!」。男やもめは寂しいのです。もう一人は、「あいつはまだ、一年だからなぁ。オレはあきらめた」。こう言うのです。「あきらめたって、なんだか後ろ向きじゃない?」、「いや、そうなんだ。」専門用語では「受容」という語を使います。様々な思いを乗り越えて、すべてを受け入れる。それにはまだ時間がかかるのでしょう。
 キュブラー・ロスの書いた「死ぬ瞬間」という本はよく知られています。200人の末期ガン患者にインタビューを行って、共通するその思いを5つの段階にまとめたものです。
 第一は「否認」。「そんなことはない」という思いです。第二は「怒り」であり、「どうして私(だけが)こんな目にあわなければならないのだ」という思いです。第三は「取引き」です。否認もできなくなると、「もう半年生かしてくれればどんなこともする」などと取引をするのです。しかし、その希望すらなくなったときに第四の段階、「抑鬱」に入ります。もはや治る望みもない段階に入って、黙すことしかできなくなります。その段階を経て、第五の段階「受容」に至ります。
 自分のことではなく、配偶者や家族を失ったとき、人はどのような思いになるのか。「あきらめ」と「受容」はどこか違うように思います。まだ、受け入れきれずに、自分を納得させている。それは年齢を重ねてのことだけではなく、災害や事故、人の死は思いがけずにやってきます。そのような思いをともに受け止めて寄り添うことはなんと難しいことでしょうか。でも、せめて、それに寄り添う歩みをしたいものです。