わかっていたはずでした。今週は、コロナの新規感染者が5千人、6千人、7千人と急激に増えて、金曜日には7千8百人と8千人に迫る勢いです。驚くことではありません。気温が下がり乾燥する冬は毎年季節性インフルエンザが流行ります。同じようにコロナも冬に感染の波が来ることはわかっていたはずです。そして、その波が来たならば、どのように対策をすればいいのか、備えが必要でした。
ところが、残念ながら人間というもの、わかっていてもできないこと、やらないことというのは実に多く、先延ばしににして、まだまだと言っているうちにみな後手に回ってしまうことは少なくありません。その時になってはじめて動き出す。ノーマルタイヤで立ち往生するのも、雪が降ってからスコップを買いに走るのもみな同じです。
最も深刻なのはいのちに関わることです。ルカ12章には金持ちの畑が豊作で。「食べて、飲んで、楽しめ」と心で豪語した後に、「今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」、続いて「自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです」と結ぶたとえ話がでてきます。神の恵みによって生かされていることを忘れ、いのちの意味を失った人への警鐘です。その時になってからでは遅いのです。
コロナであってもなくても、私たちのいのちの日には限りがあります。そして、突然お返ししなければならないこともあります。その備えはできていますか。いつ、その時を迎えても大丈夫ですか。後悔なく平安に迎えられますか。中世の修道院では「メメント・モリ(死を覚えよ)」と挨拶を交わしたと言われます。今日という日、一日一日を主にあって最善を尽くし、感謝と喜びにあふれた日に、そして神を愛し、隣人を愛する喜びに生きる日として励まし合って進みましょう。