ただ待つしかないとき

 私たちの人生にはただ待つしかない時があります。自分でどうにかできることなら、どんなことだってするのに、今はただ待つしかない。そういう時があります。便利な世の中になりました。24時間コンビニに行けば必要なものは手に入ります。ネットで注文すれば翌日には配達されます。おおよそ身の周りで待たなければならないということが減りました。一方で忍耐や我慢ということも減ったように思います。
 子どもの頃、ローラースケートが流行ったときがあります。友達はみんなが持っているのですが買ってもらえなかった。記憶では誕生日まで待ちなさいということだったと思います。両親に聞いても忘れているでしょう。みんなが楽しそうに滑っているのを横目で見ながら待ちに待ってようやく買ってもらった喜びは大きいものでした。エバニューというメーカーの青いローラースケートでした。
 実はみんなが持っているものの方が、タイヤの滑りがよくて、どうして自分のだけ違うのかちょっとばかり不満があったのですが、父は父できっと名の通ったエバニューのものがいいだろうと買ってきたのでしょう。それでもとにかく嬉しかった。今思うと、父は父の最善のときを考えていたのでしょう。いや、何かの大人の事情かもしれませんが。
 しかしながら、待つこともなく、思いのままに手にしていたら、いまなお思い出すことなどないでしょう。ことがスルスルとうまく運ぶとき、それは記憶にも留まりません。いやむしろ待たされたこと、うまくいかないこと、むだな時間を過ごしたような時を経てこそ学び得たこと、感謝なことがあるのです。今、コロナの中、待つことが多い私たちですが、やがて振りかえると神様がくださるよきものがあること信じてともに待ちましょう。
 私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。
(ローマ8:25 )