修養会では水草先生がアブラハムがソドムとゴモラの町のためにとりなした箇所から私たちに委ねられた祭司の務めについてお話くださいました(創18章)。それはとりなし祈ることです。
ソゴムとゴモラの町はそれに先立ってメソポタミヤの王ケドルラオメルに仕えていましたが、それに背いたため、徹底して攻撃されて虜にされます。甥のロトも一緒に虜にされたので、アブラムはこれを追跡して奪還するのです。このときアブラムは報酬を受け取りませんでした。すでにこの町の堕落を知り、染まらないようにと避けていたのでしょう。
一方、その町を主が滅ぼすとき、「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」と主は考えたと記されています(18:23)。そしてアブラハムに告げるのです。神は遠く離れていて、私たちと無関係にご自身でお決めになったことを一方的になさるのではなく、私たちとことばを交わし、ともにこと担うべく招いてくださっているのです。それは神の民は神の友だからです。アブラハムは神の友と呼ばれました(ヤコブ2:23)。
友だったら聞いてくれます。耳を傾けてくれます。だから50人でも40人でも、30人でも10人であっても「滅ぼすまい」と主はアブラハムのとりなしを聞いて下さったのです。
私たちが置かれているところも同じです。滅び行く魂が周りにいるのです。主よ。そのままにして置かれるのでしょうか。主はとりなし手としてことを一緒に担うことを求めておられるのです。ソドムとゴモラは最終的に滅ぼされます。「あぁ、10人もいなかったのか」とかいくぐるように救われたロトとともに主を恐れたことでしょう。主のみこころを知りとりなすことを共にさせていただきましょう。