新年度を迎えて、少し遅れて新しい奉仕の体勢を始めます。日頃から奉仕のために時間を、労をささげてくださる兄姉には頭が下がります。人がともに生きる場所では、様々な必要が出てきます。飲み食いから始まって、片付けや掃除。誰でも自分の家ではやっていることでしょう。家でも教会にしても、自分だけとか、あの人はとか思い始めたら、面白くありません。順番に自分の番が来たら気持ちよく奉仕したいものです。
私たちはそれぞれ生活感覚が違います。すごく丁寧な人もいれば、ちゃっちゃっとことをする人もいます。早い人もいれば、ゆっくりな人もいます。神学校での寮生活、「松村君、四角いところ、丸く掃けばすぐ終わり」と言う先輩に苦笑したことがあります。5,6人位まではみんなで相談すればたいてい解決するでしょう。ところが、20人、30人となるとそうはいきません。あれこれと意見が違ったらまとまりがつきません。
使徒の働きの6章には毎日の生活を共にしていた初代教会が食べ物のことで不平・苦情が出、そのために執事が選ばれたことが出てきます。世は移れど人は同じです。そして、その人たちに「委ねる」ことが愛と平和を保つに役立ったのです。
実のところ、私たちは誰かに「委ねる」ことがへたくそです。つい文句の一つでも言いたくなるのです。そのときに必要なのは、かしらがどなたかをはっきりさせるということです。かしらはキリスト。その御前に皆が仕えているのです。ならば、うまくいかないことがあったら、アドバイス・提案をするのです。文句だけを言うのは、かしらが自分だと思っている証拠です。私たちは役員やリーダー・コーディネーターを立てました。主の前にふさわしい教会を建て上げるために、ともによき奉仕をおささげしましょう。