もうここにはいない

 先週、N兄の火葬をしました。前日、ようやく見つかったお兄さんが甲府に来られて警察で手続きをしてくださり、引き取りの手はずが整ったからです。亡くなってからすでに一ヶ月以上が過ぎました。

 亡くなった日の当日、病院に駆けつけたときには、まだぬくもり残るカラダ。さっきまで息をしていたそれが今はもう止まってしまった。生きていたはずなのに、どうして動かないのか。再び起き上がって、「ゴメンゴメン、心配かけたなぁ」とでも言いそうな、まだ、受け止めきれない思いで向き合ったことでした。

 そして、引き取りの日。まだかまだかと毎日毎日連絡を待ち続けて、その間、遺体は冷蔵された状態でした。警察から引き取るそのとき、生々しくて申し訳ありませんが、冷たいところから出された遺体には霜がつき、それが溶けて濡れたその顔を見たとき、あぁ、もうここにはいない、肉体はすでに抜け殻になったのだなぁと思ったのです。そして、それは丁寧に葬ってあげたいと思いました。

 私たちのいのちとカラダは切って離せません。このカラダの限りがあって、どのように生きるのか制約があります。食べ、働き、休み、眠る。一度にできることも、疲れを覚えることも、あそこからここへと動くにも、そして、体は成長し、また衰え、老いていきます。そして、その記憶は体と結びついています。痛いこと苦しいこと、心が震えるような経験や飛び上がらんばかりの喜び。

 それを脱ぎ捨てて天に帰るとき、約束は新しい天上のからだです。地上のからだには様々な傷があります。うずく古傷があります。それがすべて新しくされる。その希望に委ねたいのです。そして、地上に残されている私たちは、このからだをもってしても神の御栄えを現そうではありませんか。