イエスの教え(2)〜永遠のいのち〜~信仰入門XII

 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」マルコ10:17

 私たち人間は、誰もがいつしか必ず死を迎えます。一方でそれがいつであるのかは誰にもわかりません。死の備えができているかといえば、誰もが先延ばしに考えているのではないでしょうか。中世の修道院では、「メメント・モリ(死を覚えよ)」という言葉があいさつとして言い交わされたといいます。死を覚えることは、その先にある希望を信じることからくる安心と平安、同時にだからこそ今を生かされている意味と感謝を覚えて生きることです。

 ところが、多くの人は不安と不平、満たされることのない思いを持ちながら生きています。何かでそれを埋め、あるいはごまかし、あるいは先延ばしにして向き合うことを恐れています。黙示録では「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない」(黙示録3:17)と、それに向き合うようにと勧められています。

 さて、この問いはイエスのもとに来た一人の人が尋ねた問いです。それに対してイエスは次のように問いかけます。「戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」するとその人は、「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております」と答えるのです。戒めを守る生き方についての問答、あるいは論争は福音書の中に何度もでてきます。それは「私は正しく生きています」というおごりをもった、いつでも人が陥りやすい生き方の一つだからではないでしょうか。

 イエスの教えは、ユダヤ人がラビと呼んだこれまでのどの教師とも違っていました。ラビが教えるとき、それはいつも伝承であり言い伝えを重んじました。一方、イエスが教えるとき、それは「まことに、まことに、あなたがたに告げます」と権威あるものでした。人々はそのことに驚きます。なかでも、律法学者やパリサイ人たちは強く反発してしばしばイエスに論争を挑みました。

 福音書には安息日の律法をめぐる対立が多く記されています。律法学者たちの伝承はミシュナーという文書にまとめられ、安息日を守るためには39種の行為に分類されたリスト、その区分や詳細が付け加えられています。例えば、イエスの弟子が安息日に麦の穂を摘み、手でもんで食べようとしたのは、刈り入れと脱穀に当たる!と批難されたのです。かつて「戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し」とイザヤが語ったように(イザヤ28:10)、律法を守ることだけに終始し、その精神はすっかりないがしろにされたのです。

 しばしば、イエスはそれを偽善者だと責めました。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」(マタイ23:27、28)そして、私たちの内側に染みついている罪に目を向けさせるのです。

 戒めを守っていると答えた人にイエスはさらに、「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」と言います。するとその人は顔を曇らせ、悲しみながら立ち去りました。イエスが問いかけたことは何だったのでしょうか。

 『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』マタイ22:38, 39

 律法はこの二つの戒めだとイエスは教えられました。徹底的に愛に生きること。それが私たちのいのちの意味であり、目的です。そして真の愛は、自分を捨てることです。ですからイエスは「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マタイ16:24)と私たちを招くのです。

 彼には捨てきれないものがありました。地上の目に見えるものに未練があったのです。

 永遠のいのちとは、神ご自身が永遠から永遠に愛のお方であるように、私たちも悔い改めて神のかたちに立ち返り、「受けるよりも与える」ことを喜びとして神とともに生きるいのちです。

 この地上ではどこまでいっても不完全であり、旅人に過ぎません。しかし、自らいのちを捨て、よみがえらえたキリストは、死をも乗り越え、永遠に天で生きておられます。信じる者はみな、この地上での生涯の終わり、死を迎えても、キリストと同じようによみがえり、傷も悩みも憂いも涙もみな拭いさられて永遠に神とともに生きる。その希望こそが神の救いです。恐れや不安を乗り越えて、「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する」(1テサロニケ5:16-18)のです。