イチロー選手が45歳で引退したのと時を同じくして妻の義伯父がちょうどその倍の90歳で亡くなり、この世での人生を閉じました。昨日まで誰の世話にもならずに元気に一人で暮らしていたのですが、風呂で心不全で倒れて亡くなっているのが見つかったのです。多くの人は長生きして、天寿を全うしたのだと思うでしょう。
人の齢は生まれを選べないように、幾つまで生きるのかを選ぶことができません。確かにわかっているのは、限りがあるということです。また、イチローが引退したように、スポーツ選手にも現役で活躍できる期間には限りがあります。45歳というのは、かなり長い方で、多くはもっと早く、他のスポーツではさらに早く、20代で現役引退というものも少なくありません。一つのことにすべてを賭けて引退するとき、とりわけ、それからの方が長いというとき、その転換はかんたんなことではないでしょう。
「その年齢だからできる」ことは限られていて、あっと言う間に過ぎ去り、後から取り戻そうと思ってもできないことがあります。だから、若さというのは、可能性を秘めた大切なものです。若い時にはその価値はわかりません。過ぎ去ってみてはじめてわかる。そういうものです。
しかし、先の不安や後ろを振り返った後悔に生きることよりも、「今」を大切に生きることの方がもっと大切です。「今」を神さまから与えられた時として、機会として生きようと祈り願うならば、たとえ、いくつであったとしても、喜びをもって「今」を生きることができる。そう私は信じています。大切なのは神からいのちと時を与えられたという感謝を覚えること。それに応えて「今」を生きることではないでしょうか。
「こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返さない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」(伝5:19-20)