インサイダー?それともアウトサイダー?

 18年前の1月17日、私はアウトサイダーだった。神戸の町が燃えている。もくもくと立ち上る煙、無残にも倒れた高速道路の高架、一階がつぶれた市役所。どこも見覚えのある場所だ。ちょうどそれに2年先立って旅行で訪れていたからである。それでも私にはテレビの向こうの遠く離れた場所で起こった出来事の一つにしか映らなかった。

 それがインサイダーに変わったのは11年前のことだ。神戸のS教会のH牧師とどういう巡り合わせか研修会で二晩同室になった。一緒に食事をし、散歩し、語り合い、みことばを開いて共に祈った。震災後に書かれた著書や報告集も読んでいたのだが、自分のこととは思えなかった。それが時間をともにすることでその経験を共有し、初めて思いの一つ一つが少しだけわかるようになった。そして、共有したことを反芻する度、自分で経験することの範囲をはるかに超える豊かな糧となった。

 私たちは周りのできごとに対してどこか人ごとです。思いやりや想像力に貧しいアウトサイダーです。どれだけ目が開けるのか。思いを共にすることができるのか。それは時間をかけて耳を傾け、思いを聞き取らなくてはならないのです。遠くにいてはわからないのです。

 イエスが「悲しみの人で病を知っていた」のは、取税人や罪人、病める人とと一緒におられたからです。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」(ヘブル4:15)とあるようにあえて人となられて同じところにいて下さったからです。イエスともに居たもう!ならば私も友とともに居よう!