オリンピックの曇りと主にある望み

 まもなくかなたの流れのそばで
  楽しく会いましょう また友だちと
 神様のそばのきれいなきれいな川で
  みんなで集まる日の ああなつかしや
(新聖歌475)
 私がまだ小学生だった頃、毎年、名栗川バイブルキャンプ場という渓谷のキャンプ場で教会のキャンプをしていました。きれいな川のほとりで過ごしたそれはそれは楽しい思い出だけが残っています。
 東京五輪です。開会式は、205カ国の選手が集まり、無観客とはいえ、テレビ中継されたものを見ると素晴らしい!と思います。国も人種も、それぞれが抱える困難や問題はともかくも、すべての隔てを越えて、スポーツをともに競い合う。勝ったも負けたも、すべてが競技の間はフェアです。誰もが喜んでそのルールに従います。平和の祭典と呼ばれるゆえんです。
 一方、手放しにそれを喜べないのが、今の状況です。コロナ第5波、こうなることはわかっていました。それを押してまでする意義があるのか?さらに拡大の因子となるのではないか?逼迫する医療現場に無理強いをし、命を犠牲にするのか?やっぱり経済優先、そして、背後に動く金のためなのか?これをやると言ったには後には引けない意地なのか、プライドなのか?渦巻く疑念を払拭することができないままの見切りスタートです。まったくもってフェアじゃない。どんなに素晴らしいことであっても、一点でも曇りがあったら心晴れてスタートはできないのは誰しもが同じです。あるいは地上にいる以上、逃れられないのでしょうか。
 一方で、天の御国に呼び集められるとき、すべての壁が取り去られる。しかも、しみも汚れも一切が取り去られ、ただ、喜んでキリストの名のもとに集められる。その「望み」をいつも握りしめ、地上でも、その「望み」を表す歩みをさせてくださいと祈ります。