ヤコブとエサウ、なぜヤコブ?

ヤコブの家は火となり、ヨセフの家は炎となり、エサウの家は刈り株となる。

・・・王権は主のものとなる。オバデヤ18, 21

 早天祈祷会で読み進めている預言書。オバデヤ書にこのようなことばが出てきます。なぜヤコブの家は覚えられ、エサウの家は滅ぼされるのか?どうして長子の権利が重んじられるのか。彼らはもともと双子だったじゃないか。どこにその違いがあるのだろうか。そんなことを考えるのです。

 ヤコブとて決してほめられた歩みをしたのではありません。むしろ、ずる賢いことを平気でする人でした。一杯の煮物と引き替えにエサウから長子の権利を奪い取り、父の祝福を替え玉になって受ける。おじラバンのもとでも、二人の妻と二人のそばめの間を右往左往、家族を治めきれません。結果、息子たちは兄弟間で憎しみ合い、弟ヨセフをエジプトに売り飛ばし、獣に襲われたと父であるヤコブを欺きます。どう考えてもそれにふさわしいような人物ではないのです。

 かたやエサウ、「一杯の食物と引き替えに長子の権利を売った俗悪な者」と評されますが、旧約聖書に記録されているのは、たった一回の出来事です。そして弟を恨むようになった。でも時間が経ってみれば寛大に受け入れる。そんな人物です。神の目にどのような違いがあるというのでしょうか。

 そう、神の目から見るならば、違いなどないのです。どちらも罪深い欠けだらけの人物です。ヤコブが選ばれたのは、ただただ神の恵みによる。それだけです。オバデヤ書では「王権は主のものとなる。」あくまで主が神の国の王です。なぜ、わたしが?と問いかければ、神の恵みによるほかありません。私たちも選ばれた恵みにお応えする歩みをさせていただくことを祈りましょう。