一つに集まることの意味

 先週は全国教職者研修会が行われました。北は北海道から沖縄まで、約180名の教職者が集まり、ともに交わり、研修を持つことができました。普段はなかなか顔を合わせることのできない先生方にもお会いし、励まし合うことのできたことを感謝しています。

 今の時代、コミュニケーションの手段は発達しました。インターネットなどを使えば、地球の裏側だろうとどこだろうとリアルタイムでビデオ通話もできる時代です。全国から180名が集まれば、交通費や宿泊費など相当の費用です。もっと効率的にこのような会を持てないだろうかと思ったりもします。

 しかしながら、人は顔と顔を合わせて、あるいは一つに集まるということに大きな意味があるように思います。とりわけ、一つに集まるということには、大きな力の励ましをいただく大切な機会だと思うのです。牧師たちはみなそれぞれ奮闘しています。そして、それが孤軍奮闘というような中に置かれている牧師たちは少なくありません。働きの実を次々に与えられるという感謝ばかりではありません。それを分かち合うというよりも、何年も、いや、何十年も黙々と実を刈り取ることを待ち望みながら、忍耐をもって仕えておられる牧師たちが多いのです。

 「私ひとりじゃない」ということほど慰め大きいことはないように思います。同時に「主を仰ぎ見て、みことばに励まされてともに祈ろう!」という信仰の励まし、それこそが弱い私たちを立たせる力です。また、それは私たちが毎週繰り返す礼拝も同じです。一つに集まる喜びを主の御前にともにしようではありませんか。

「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」ヘブル10:25